柴田保光のノーヒットノーラン。
2005年 04月 26日
もう、15年の歳月が過ぎてしまった。90年4月25日、東京ドームで達成された記録は
いまでも心に深く刻まれている。
日本ハムの柴田保光。長崎の島原農高からノンプロの丹羽鉦電機を経てあけぼの
通商、1978年にドラフト3位で西武ライオンズに入団。吾輩が覚えている当時の柴田
はスピードでグイグイ押すタイプで、コントロールはあまり良くなかった。
84年に当時の抑えの切り札、江夏との交換トレードでハム入り。江夏が出て行って
しまったために失望感はあったが、柴田自身には魅力を感じていた。投手として自立
していくのはむしろハムに入ってからで、85年には11勝を挙げてエースの仲間入り
をする。右の本格派からスリークォーター気味に投げ方を変えたのもこの時期で、速
球の魅力が薄れたが、安定したコントロールを武器にすることができた。
しかし、持病だった右人指し指血行障害の手術で87年から2年間は不振に陥るが
完全にコントロール主体の軟投派に転向する。
そして90年のシーズン。吾輩は仕事場の同僚を誘ってその年初めて東京ドームの
日本ハム対近鉄戦へ。
しかし、その日のお目当ては実は柴田ではなく、その年のドラフト1位で評判が高かった「野茂英雄」だった。
中日ファンと野球はあまり良く見ていない友人を誘って、吾輩が個人的に好きだった
指定席Cに座った。(ここはバックネット裏の真上辺りにあり、野球を全体的に俯瞰す
るには絶好の場所だった) 先発は新聞予想とはまったく異なり近鉄は左腕の小野。
ハムは予想通り柴田が投げる。当時の近鉄打線はブライアントを中心とする猛牛打
線が絶好調のときで、中日ファンの友人も「ブライアント、返して~」とか言っていたっ
けなw
周りがノーヒットノーランを意識し始めたのは6回あたりか。強打者揃いの近鉄を相
手に三振と内野ゴロに仕留める、柴田。決してエレガントな投げ方ではなく、野茂のよ
うな豪速球もないが、コントロールと投球術でも抑えられる、見本のようなテンポのい
い投球で翻弄する。
当日のお目当てだった野茂はなんとリリーフで登板。プロ入りしてから2試合目、ま
だ近鉄では先発投手として確固たる地位を固めていなかった野茂は、そのトルネード
投法の異質な投げ方にもびっくりしたが、明らかに重そうな豪速球に驚嘆した記憶が
ある。 降板した小野にしても、3回に"コユキ"こと田中幸雄にソロ本塁打のヒット1本
に抑えていたので決して悪い内容ではなかったと思う。
7回を過ぎると、東京ドームの"黒い団体"達が席を立ち、一応埋まっていた内野~
外野のスタンドも空席感が目立ってしまう。東京ドームでは、よく修学旅行生が日本ハ
ムの試合を東京見学の一環として使うのだが、門限のために退散してしまうのだろう。
正直もったいない話だけど。
結局、ハムが7回に野茂を攻略し2点を追加、3-0で勝った。柴田も後半に外野フ
ライを打たれたぐらいで、主砲ブライアントには3奪三振。100球を切る内容は完ぺき
だった。
おそらくノーヒットノーランは後からついてきた記録だったんだろうね。ヒーローインタ
ビューでは遅咲きのノーヒッターの笑顔が東京ドームのオーロラビジョンに大きく映し出
されていたことを覚えている。当時32歳で、のちに佐藤義則(当時オリックス、現在ハム
2軍コーチ)が40歳で更新するまではノーヒッターとしては最高齢だった。
【追記】
昨年の4月25日に東京ドームでフットサル大会があり、ミックスでのエントリーを考えたが
都合がつかず断念した。吾輩の中には14年前にノーヒットノーランがあった東京ドームで
(野球ではないが)プレーを夢見たンだが…。ファイターズも遠く札幌へ移転してしまったの
で寂しい。
いまでも心に深く刻まれている。
日本ハムの柴田保光。長崎の島原農高からノンプロの丹羽鉦電機を経てあけぼの
通商、1978年にドラフト3位で西武ライオンズに入団。吾輩が覚えている当時の柴田
はスピードでグイグイ押すタイプで、コントロールはあまり良くなかった。
84年に当時の抑えの切り札、江夏との交換トレードでハム入り。江夏が出て行って
しまったために失望感はあったが、柴田自身には魅力を感じていた。投手として自立
していくのはむしろハムに入ってからで、85年には11勝を挙げてエースの仲間入り
をする。右の本格派からスリークォーター気味に投げ方を変えたのもこの時期で、速
球の魅力が薄れたが、安定したコントロールを武器にすることができた。
しかし、持病だった右人指し指血行障害の手術で87年から2年間は不振に陥るが
完全にコントロール主体の軟投派に転向する。
そして90年のシーズン。吾輩は仕事場の同僚を誘ってその年初めて東京ドームの
日本ハム対近鉄戦へ。
しかし、その日のお目当ては実は柴田ではなく、その年のドラフト1位で評判が高かった「野茂英雄」だった。
中日ファンと野球はあまり良く見ていない友人を誘って、吾輩が個人的に好きだった
指定席Cに座った。(ここはバックネット裏の真上辺りにあり、野球を全体的に俯瞰す
るには絶好の場所だった) 先発は新聞予想とはまったく異なり近鉄は左腕の小野。
ハムは予想通り柴田が投げる。当時の近鉄打線はブライアントを中心とする猛牛打
線が絶好調のときで、中日ファンの友人も「ブライアント、返して~」とか言っていたっ
けなw
周りがノーヒットノーランを意識し始めたのは6回あたりか。強打者揃いの近鉄を相
手に三振と内野ゴロに仕留める、柴田。決してエレガントな投げ方ではなく、野茂のよ
うな豪速球もないが、コントロールと投球術でも抑えられる、見本のようなテンポのい
い投球で翻弄する。
当日のお目当てだった野茂はなんとリリーフで登板。プロ入りしてから2試合目、ま
だ近鉄では先発投手として確固たる地位を固めていなかった野茂は、そのトルネード
投法の異質な投げ方にもびっくりしたが、明らかに重そうな豪速球に驚嘆した記憶が
ある。 降板した小野にしても、3回に"コユキ"こと田中幸雄にソロ本塁打のヒット1本
に抑えていたので決して悪い内容ではなかったと思う。
7回を過ぎると、東京ドームの"黒い団体"達が席を立ち、一応埋まっていた内野~
外野のスタンドも空席感が目立ってしまう。東京ドームでは、よく修学旅行生が日本ハ
ムの試合を東京見学の一環として使うのだが、門限のために退散してしまうのだろう。
正直もったいない話だけど。
結局、ハムが7回に野茂を攻略し2点を追加、3-0で勝った。柴田も後半に外野フ
ライを打たれたぐらいで、主砲ブライアントには3奪三振。100球を切る内容は完ぺき
だった。
おそらくノーヒットノーランは後からついてきた記録だったんだろうね。ヒーローインタ
ビューでは遅咲きのノーヒッターの笑顔が東京ドームのオーロラビジョンに大きく映し出
されていたことを覚えている。当時32歳で、のちに佐藤義則(当時オリックス、現在ハム
2軍コーチ)が40歳で更新するまではノーヒッターとしては最高齢だった。
【追記】
昨年の4月25日に東京ドームでフットサル大会があり、ミックスでのエントリーを考えたが
都合がつかず断念した。吾輩の中には14年前にノーヒットノーランがあった東京ドームで
(野球ではないが)プレーを夢見たンだが…。ファイターズも遠く札幌へ移転してしまったの
で寂しい。
by ta_ch1967
| 2005-04-26 10:12
| やきゅう